経験としての芸術(美学・芸術哲学の観点)
高校生向けのやさしい解説
芸術は美術館や劇場だけのものじゃない——砂浜を走る子ども、薪をかき回す職人、そういう日常の充実した行為にも美的な質が宿るとデューイは言います。「これ美しいね」と感じる経験と、絵画を描くときに素材と格闘する経験は、実は同じ構造を持っているのです。芸術を特別扱いせず、生きることと地続きに考えた20世紀美学の代表作です。
概要
本書はJohn Deweyが1931年にハーバード大学で行ったウィリアム・ジェームズ記念講演に基づき1934年に刊行した美学哲学の主著である(G. P. Putnam’s Sons)。カント以来の観念論的美学が芸術を「非利害的観照」の対象として日常経験から切り離したのに対し、デューイは「審美的経験はあらゆる充実した経験に内在するものである」と主張する。芸術家とバーンズ財団(Albert C. Barnes)との長年の対話に基づき書かれた本書は、審美的経験の構造・表現の行為・形式と内容の統一・批評の役割などを体系的に論じる。20世紀で最も重要な英語圏の美学著作の一つとして評価される。
主要概念
美術館批判と連続性の回復
本書の出発点は「芸術作品が美術館に隔離されてしまった」という問題意識である。美術館・ギャラリー・コレクション制度は、芸術を日常生活・社会的コミュニティから分離し、富の証明・地位の誇示の道具とした。デューイはこれを西洋近代の資本主義・ナショナリズムと結びつけた文化的病理と診断する。芸術哲学の課題は「洗練された芸術経験」と「日常の充実した経験」の連続性を回復することにある。
審美的経験の条件
審美的経験は日常のあらゆる充実した経験の中に胚胎している。火夫が薪をかき回す様子、砂浜を走る子供、熟練した職人の仕事——こうした行為が完全に従事された(fully engaged)とき、そこに審美的質が宿る。審美的経験を特別なものとするのはその「性質(quality)」であり、対象(美術品)ではない。
ひとつの経験(an experience)の完結性
日常の「経験の流れ」から区別される「ひとつの経験」は、始まり・中間・終わりを持つ内的統一体である。嵐の到来・会話・食事・芸術制作など、テンションが累積し最終的に充実として完成するとき「ひとつの経験」となる。この完結性が審美的経験の核心であり、芸術作品は「ひとつの経験」を最もよく例示する。
表現と素材の格闘
芸術的創造における「表現」は内面の感情の直接放出ではない。衝動と衝動に抵抗する素材との格闘——石との対話、絵の具の物質性との交渉、言語の抵抗——を経て、衝動が素材によって形成され洗練される。素材は受動的媒体ではなく、表現プロセスを形作る能動的要因である。
形式と素材の有機的統一
伝統的な美学は「形式(form)」と「素材(content)」を分離して論じる傾向があった。デューイはこの二元論を拒否し、真の芸術作品においては形式と素材は有機的に統一されていると主張する。形式は外から加えられるものではなく、素材の抵抗を通じて内部から生成する。
批評の役割
芸術批評は「好き嫌い」の判定でも権威による格付けでもない。批評の機能は知覚の教育(education of perception)にある——作品の各部分の関係、素材の使い方、経験の形成過程を指し示すことで、受容者の知覚を豊かにする。デューイにとって批評は探究であり、作品を媒介とした経験の深化である。
美学と文明
最終章でデューイは芸術と文明の関係を論じる。芸術は文化の装飾ではなく、コミュニティが共有する経験の質の表現であり指標である。芸術が日常から隔離されているとき、コミュニティ自体が分断されている。芸術の民主化は文化的健全性の条件である。
書誌情報
- 著者: John Dewey
- 年: 1934
- 出典: G. P. Putnam’s Sons, New York(William James Lectureship, Harvard University, 1931年講演)
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